談林サロン

DANRIN SALON

<小説・密厳國紀>霧生丸編⑭「村落」

2020/07/23

今日はさらに目覚めが心地よい。
この外輪山の中の広大な広がりを駆け巡りたい、そんな衝動に駆られる霧生だった。
青顧はもうせせらぎの源流の滝で待っていた。
「青顧様遅くなりました。」
「様は余計だ。私は早暁にこの瀧をいただくのが好きなのだ。」
少し日が暮れるまでには戻るので急ごう。」
青顧は短めの道中袴脚絆に足半(あしなか、半分の草鞋)をつけている。
霧生は素足だ。
「霧生は足が強そうだ。山野を駆け巡っていたようだな。」
そうだ俺は山野を駆けるのが好きだ。
「はい、たぶん、足はとても早かった記憶が・・・」
「では遠慮しないでいくぞ」
青顧は一気に渓流を飛ぶように左右に大きく跳ねながら岩場を伝わって降りていく。
女人とは思えない。
霧生も必死に駆け下る。
水流が地中に入りその先は灌木の林、さらにその林を越えると、背丈より高い野草の中を進む。
霧生は青顧を見失うまいと必死に走る。
野草を抜けると急に空気が変わり畑とその先に田も見えてきた。

 村人が作業する周りで子供たちが遊んでいる。
畑と田の間には納屋や作業の小屋などが建ち並びかなりの人々が暮らしていることが伺えた。

子供の一人がこちらに目を向けた。
「わー天狗さんが二人もおりてきなさった。一人は子ども天狗さんじゃ。」
「宗元、宗進、花たちも久しぶりだな。ちゃんと学んでるのか。」
「はい私は今、星のうごき、宗進は十露盤(そろばん)、花は山の石について」
「そうか偉いなしっかりな、これは霧生、お前たちとい同じ年頃だがからなかよくな。霧生は私のもとで院に暮らす。」
『わーいいな。青顧様と院で暮らすのか。うん、こんど遊ぼ。」
と笑いながら駆け出していった。
「みな朗らかで楽しそうで。.」

「この三室戸山内ではすべての子どもが分け隔てなく学べる、食にも困らない。海剛山院の僧たち含めすべての民が我が子のように支え育てている。
親を病で亡くしてもしっかり生きていける。」
「みんな好きなことを学んでいますね」
「読み書き、暗算、そして仏教儒教道教は必ず学ぶ。さらに好きなこと医学、算学や星のこと、建築土木なんでも学べる。」
「霧生はそのすべても仏教の深淵どころか密教をも体得しているようだな」
「わかるんです。目に映れば曼荼羅のことも鑁大阿のことも。衣帯を見ればその意味も位も。ただなぜ私がそれを知っているのか・・・」
「やがて思い出すかもな。」
「誰にでも心に傷の一つ二つはある。心の傷を癒すにはその傷と己が向き合わないと。ただ霧生の傷はお前自身の生命を奪うほど深いようだ。」この山は身体の傷も心の傷も癒す聖なる山だ。海大阿が開かれた。」

霧生は己の闇が、過去の記憶が一瞬蘇る。極めて短い走馬灯のように。激しい戦乱と殺戮、略奪、硝煙の匂い。
果たしてそのどこに己がいたのか。
いたとすればどちらの側に。
殺める方か、あるいは殺められる方なのか。
あらゆる悪を犯してきたような気もする。悪事をすべてやり尽くして死のうと思っていたような・・・

「二つの大池が見えるだろ。上にあるのが夏も手が凍えるほど冷たい湧水。夏には美味い*蓴菜も採れる。外輪山から湧き出る水には山の中を通り濾過されながら清浄になり同時に山の豊かな力が加わる、と海大阿が語られていたそうだ。
だからこの田畑の稔りも木々の実も力強く美味で薬草は効能が群を抜く。」
「お前の心に深く刺さった傷も鑁様が抜いてくれよう。慌てるな。」

霧生は死ぬ感覚と死からの再生の感覚との間にいながら光明を観たような気がした。

この山の風も光もこの葉の揺れる音、鳥の囀りすべてが調和している。
その一部に己がなれれば・・・

「大晦日に禊を新月元朝から伝授が始まる。しかも鑁大阿の直伝。他の阿闍梨様がされる慣しなのにな。鑁大阿の直伝となれば一山すべての僧が立ち会うかも知れん。厳しいぞ。鑁大阿の直伝は口伝のみ。【口伝、資料も無くメモも取れない】私が補佐教授にと。数々の真言と印、観想が伝えられる。秘伝もあるかもしれない。楽しみだな」
青顧は真から楽しそうに笑みを含んだ。

灌木・・・成長しても3mに満たない低い木のこと。
蓴菜・・・じゅんさい。多年生の水生植物。