談林サロン

DANRIN SALON

<小説・密厳國紀>霧生丸(きりゅうまる)編①

2020/07/23

漆黒の道場に導かれ下座に座らされる。
どれぐらいの刻が流れたのか、まどろんでいたのか。
気配が変わるのを感じて眼を開けると奥に灯明が一対。
目が闇に慣れてくると灯明が置かれているのは上段の間で少し手前にはには黒衣の老僧が一人。
目を凝らすと老僧の後ろの壁には金銀泥の両部の大曼荼羅が正厳されている。
灯明の明かりの揺れで曼荼羅が生きてるような、おおらかな呼吸をするように心地よい揺らぎを奏でている。
その前には金剛盤と六器が並べられている。

香炉に名香が焚かれ高貴な香りが堂内を満たしている。宮中の真言院と同じ沈香が焚かれるここは何処なのか。
霧生丸には皆目見当もつかなかった。ただひたすら眼に映るものを見、五感でこの世界この道場を味わい己がここにいるいわれを知ろうとしていた。
そしてここがどこなのかを。

老僧の座相が美しく静かで軽やかでいながら揺るぎない。
こんな座相に触れたことがない。金銀泥の大曼荼羅と溶け込み一体不二にも見える。
堂内の暗さに慣れてくると老僧の着けている帽子が大帽子と言う僧綱の者のみが許させれるものに見える。
首に三重にゆったりと巻かれ、地位の高さがわかる。
しかもわずかに緑が浮かぶ縹色の大帽子。大帽子を着けられるのは僧綱の最高位のみ。
黒衣の老僧は僧綱の最高位なので僧正なのか?だが、僧正は緋の衣を被着されるはず。
黒衣に見えるが深い真紅の衣が暗い道場で黒衣に見えるのか?
緋の衣は紅花で染めるのが正しい。しかし紅花で染めると発色はほぼ黒く見える。
道場が明るければわかるが。
己が何者でなぜここにいるのかさえわからないのに、次々と問いが溢れて迷いの中に沈んでしまいそうだ。
迷いの深海に意識も沈みそうなその刹那
「師の正面に進み師に三礼!」と涼やかな声が道場に響いた。
声のありかがわからない。どこで誰が発したのか?老僧の声ではない。稚児のような若い、しかし凜としてある種の威厳もある。
正面の脇に小柄な僧が*蹲踞(そんきょ)している。全く気配を消していたのか?老僧の持僧か?
また生まれた問いを背中に残しながら、壁際から老僧の正面すり足で進みに一間の間をとって丁寧に三礼し両足を蓮華座に組み着座する。

印を丹田に組んで数息して心を整える。
己の呼吸を何かが包み込んでくる。
波動か?この漆黒の道場を占めている母胎のような温もりはこの波動から来ているのか?
静かに吐く息と吸う息を数えながらその波動を感じていると、波動は二つの方向から発せられている。
母胎のような温かな波動は持僧からだ、そしてさらに深く清明な波動はこの老僧からか。
己の息が波動の揺らぎと調和し始めた。
どちらが合わせるわけでもなく波が波と調和するように波長が整ってくる。
道場全体にさらなる深みが感じられる。
突然意識が奈落に沈んだ。

奈落。
暗黒の奈落に落ちている。落ちたのではないか。自ら暗黒の奈落世界に身を落としたのだ。

※注釈
*蹲踞(そんきょ)・・・膝を折り立てて腰を落とした立膝をついた座法。古くから伝わる日本の礼法。